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北信地区/左岸 栽培農家
吉原 健

かつてバックパッカーとして世界を旅した青年は、パリからニースへと向かうTGV(フランス高速鉄道)の車中から目にした光景に衝撃を受けた。列車が速度を落とし、アナウンスにいざなわれるまま車窓に視線を移すと、一面に世界有数のブドウ畑が広がっていた。それは農業国フランスの文化であり、誇りの象徴でもあった。それから時を経て、青年は先祖代々の土地を受け継ぎ、ワイン醸造用ブドウの栽培家となった。あの日を振り返りながら、吉原健氏は自らの手でこの地を開墾し、日本を代表するワイン醸造用ブドウの畑として育て、いつかこの風景を新幹線の車窓から乗客が臨む、そんな日を夢見て、日々ブドウ栽培に専心する。

シャルドネの苗と共に

長野五輪が開催された1998年、Uターンで地元に戻ってきた。時を同じくして、シャルドネの植え付けが、この地で始まろうとしていた。「ワイン醸造用のブドウ栽培を手がける仲間を増やそうということで、父に声がかかりました。ちょうど私が家業を継ぐタイミングで、シャルドネの苗が届いたのを覚えています。以前、巨峰畑だった放任園を2年がかりで、鍬と鎌、スコップとツルハシを使って自力で開墾しました。」

粘土質の土壌が生む、特別なブドウ

当時、ワイン醸造用のブドウは、岩場で水はけのいい土地で栽培するのが常識だった。「このあたりの斜面は粘土質で、栽培が成功するかどうか未知数でした。でも、試行錯誤を経て、ようやく「北信シャルドネ1998」がジャパン・インターナショナル・チャレンジ1999でベストシャルドネに選抜されたことで、風向きが変わった。白ワインには酸が重要で、糖度をつけすぎると酸が飛び、凡庸になってしまいます。不足した糖は後から加えられますが、酸は加えられません。大事なのは、酸。白ワインの口当たりも酸が関係します。」

同じ状況・同じタイミングで収穫したものを成分検査すると、他の産地と比べ、アミノ酸、タンパク質の含有量が桁違いに多かった。「醸造からすると、後から足せない成分で、それが他の産地にはなくて、ここにはある。粘土質でも栽培に適していたことが証明されました。このあたりは善光寺の北側から続く善光寺断層にあって、特異な地層を形成しているそうで、そのライン上に豊野町南郷の山手が位置しています。」

ノンボルドーが証明した、ブドウの力

この20年、毎年違うことを試してきた。「量産ではなく品質を重視した畑にし、除葉や収穫のタイミングを変えて、毎年データを取り、片側を獲った場合、両側を獲った場合、また色づいたものだけをスポット的に収穫するなど、実験的なことを重ねてきました。ここ数年は、農薬のボルドー液を使わず、ノンボルドーで栽培しています。香りと豊潤さが格段に伸びました。ステンレスタンクだけで発酵させるアンウッデッドができたのも、ノンボルドーだから。樽の香りがついていない分、シャルドネの香りをダイレクトに楽しめます。それも100%ブドウの力で、ブドウの質がよく、ブドウ自体に力がなければ造れません。ここまでくるのに7〜8年かかりました。」

お天道様には、逆らわない

自身をして、ブドウはつくれないという。なぜならブドウを作るのは、樹であり、土であり、風であり、水。人はそれを管理するだけ、と笑う。「あくまでも見守るくらいしかできません。要するに、“お天道様には逆らわない”こと。がんばってもどうしようもないことはどうにもならないので、自然に委ねる。自然に泣かされ、右往左往して、与えられた条件の中でどれだけベストを尽くせるか。すべてを受け入れ、自分にできることをするだけです。」

連係プレーから生まれる、ワイン

自身は、ワインについて語るということをしない。「知識も技術もないので、ワインはつくれないし、語れません。ただ、出荷時のブドウがベストの状態にあるかどうかはわかります。だから、そこに向けてすべきことを逆算します。今までの経験やノウハウ、失敗を加味し、果汁を獲るためのブドウとして最高の状態にして渡します。でも、どんなにいいブドウを作っても、醸造する人、売る人、宣伝する人など、関わる人すべての力があってはじめて、一本のワインができる。みんなつながっていて、その連携プレーで生まれるのがワインだと思います。」

土地を受け継ぐものとして

土地には歴史がある。それを受け継ぎ、土地と向き合っていく。「先祖代々、この土地を守ってくれた人がいるからこそ、今の自分がある。昔の人は、鎌と斧だけですべて切り開いた。そのことが頭にあったので、裏山の斜面を自力で開墾した時は、意地でも歩いて登りました。ご先祖ができたのなら、自分にもできるって(笑)。みんなには笑われましたが、それくらいの意地がないと続けられません。」

その土地に生きるということ、自然と向き合うということ、その誇りと無念から絞り出される一つ一つの言葉は、土地に根ざすものの生き様となって響く。栽培家のひたむきな日々は、あの日、車窓から見たフランスの風景とつながっている。

北信地区の二人の栽培家が魂を込めて育む、ブドウの個性。それぞれの栽培哲学に違いはあっても、そこに流れる時間、ブドウに寄せる想い・情熱は一房一房に凝縮され、やがてシャトー・メルシャンの醸造を経て、豊かな香りと味わいを纏うワインとなって実を結ぶ。人がワインに魅了されるのは、そこに込められた人の想い、時の流れが、味や香りという個性となって生まれ変わるからだろう。二人が今後、どのようなブドウの個性を引き出し、新しい境地を拓いていくのか。きっとそれは、ワインが語ってくれることだろう。

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